みやび通信

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映画『シン・仮面ライダー』の感想

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シン・仮面ライダー
制作:シネバザール
公開:2023年3月
監督:庵野秀明

 

映画『シン・仮面ライダー』のネタバレありの感想です。

 

 

仮面ライダーとは

1971年に放映を開始した初代『仮面ライダー』という番組は、知れば知るほど歪な作品だ。それは、初期における保護者からの苦情や視聴率の低迷、主演俳優の事故など、様々な事情によりマイナーチェンジをしていく過程で生まれた「変身ポーズ」が日本中で一大変身ヒーローブームを巻き起こしたことに顕著だろう。スナック菓子にコレクション性の高いカードを付けた『仮面ライダースナック』も大ヒット商品となった。このライダースナック、途中からカードに使う写真が足りなくなり、放送前の話の写真を使うことで、次回予告や本編で端折られた設定を伝える役割を果たしていた。その他にも、当時の子供たちは雑誌の情報やマンガなどで得た知識を共有しながら楽しんでいたし、番組自体もそういった環境を大いに利用していた。
なので、今からDVDなどで本編だけを観て『仮面ライダー』という作品全体を把握するのは難しい。
途中、ライダーが全く変身を解かずに声が別人になっている時期があったり、1号ライダーが久々に帰ってきたと思ったら何の説明もなしに仮面のデザインが変わっていたりするのも番組内で説明されることはない。その他にも、原作者が監督を務めたやたらとシュールな回が存在したりと、語り尽くせないほどの多様な要素を含んでいる。そして、その歪さは子供たちの圧倒的な支持を受けることで後続の作品にはないダイナミズムを生んだ。
現在、昭和ライダーに関しては様々な資料や証言が出尽くしているので、今からでも十分情報を補完することは出来る。
しかし、本作『シン・仮面ライダー』において、そうした元ネタ探しをいくらやったところで、その努力は徒労に終わるだろう。

 

昭和の子供の原体験

「白黒のテレビで見た夜の格闘シーンのインパクトが忘れられない」という庵野監督の発言を聞く限り、庵野の中に当時の子供たちの原体験を再現したいという想いがあったことは確かだ。それは「ノスタルジーは捨てたくない」という発言からも汲み取れる。
昭和シリーズのプロデューサー・平山亨が標榜した「マンネリの美学」は、71年当時、非芸術的な過去の遺物として忘れ去られようとしていた『鞍馬天狗』に「メキシコのプロレス」や「江戸川乱歩」などの要素を混合させることで、懐かしくも新しい『仮面ライダー』というヒーローを生んだ。こうした初期の主題は、白黒テレビの中で戦うヒーローと怪人に目を奪われた庵野少年にダイレクトに伝わっていたであろう。


『シン・仮面ライダー』の序盤、本郷猛が自分の力を制御できずに悩む姿は71年版そのままだし、飛び散る血しぶきは原点回帰を目指した『仮面ライダーアマゾン』(1974年)を思わせる。緑川ルリ子役を演じた浜辺美波の佇まい、本郷との関係性も良い。その他にも、予告の時点で流れていた、白煙を巻き上げて走るサイクロンやライダーの造形も71年版の良さを踏まえたものになっている。
だが、最初の怪人クモオーグを倒したあたりから雲行きが怪しくなってくる。2番目の怪人コウモリオーグは上記した、監督が少年時代に見た「白黒のテレビに映る夜の格闘シーン」の元となる71年版第2話『恐怖蝙蝠男』に該当する。しかし、本作のコウモリオーグパートのドラマとCGにはただただ閉口するしかない。

一言でいえば、とにかくチープなのだ。私は本作を最速上映で鑑賞したが、笑いは一切起きていなかった。71年版にはチープな演出がいくつもあったし、80年代以降にはそうしたツッコミどころを探して楽しむ風潮があった。しかし、71年当時に制作側がそうしたチープさを意図していたわけではないし、それをあえて再現するのは無謀だろう。しかも本作では、それが狙ったものなのかどうなのかがよくわからないので困惑する。
コウモリオーグ以降も、延々とこうした演出が続く。4番目の怪人ハチオーグでは上空からのキックで屋上の装置を破壊するというバカ作戦があっさりと成功を収める。そして、ハチオーグがかつて緑川ルリ子の親友だったことから、とどめを刺す直前で本郷は仮面を脱ぎ捨てる。彼が言うには、仮面を被っていると残虐性が抑えられず殺してしまうからその前に仮面を脱いだ、との事だが、仮面を被っていても「いかん、このままでは殺してしまうから脱ごう」と思える理性が残っているのなら付けっぱなしでも問題ないだろう。ここら辺、ものすごく昭和特撮っぽいバカらしさなのだが、何というか、笑える感じではなかった。
そもそもこの『シン・仮面ライダー』には一般人がほとんど出てこない。少年ライダー隊のような子供のキャラクターも存在しない。ほぼ全員が改造人間で、延々と無機質な会話が繰り広げられる。しかし、そんな中にあっても決して優しさを失わない本郷猛が悪を打ち倒す、というドラマのはずだ。だが、戦闘シーンはまだ許容できるとしても、ドラマ部分がノイズになると話が全く頭に入ってこない。
それと、2号ライダーと共闘する場面で、本郷の足が折れて不自然な方向へ曲がっているカットがあるが、ファンならば71年版の撮影期間中に本郷猛役の藤岡弘がバイク事故で骨折したことを想起するだろう。これがもし冒頭で書いた、当時の『仮面ライダー』を取り巻く環境を含めた再現ならば、その選択は適切とは言い難い。こんなもの、誰が喜ぶのか。
仮に、これらが意図して描かれているのだとしたら、ドラマの内容を役者に延々と説明させるのではなく、先月発売された「ライダーチップス」に付属されたカード裏で説明するべきだろう。「ノスタルジーと新しさの融合」(庵野)に必要なピースは全て揃っているのに、それらがどうにも繋がらないという歯がゆさが本編全体を覆っている。

 

一文字隼人はどこへ行くのか

最後に、本郷の遺志を受け継いだ一文字隼人が政府のもとで活動していくという描写があるが、もともと斎藤工の演じる滝和也というキャラクターがFBIという設定だったので不自然さはない。滝の婚約者を殺した怪人ゲバコンドルの「ゲバ」は、左翼活動家の使う「ゲバルト棒」から名付けられているし、『仮面ライダーストロンガー』(1975年)の敵組織であるブラックサタンの内部抗争は当時の安保闘争における「内ゲバ」に着想を得ている。だが、これは特に左翼思想を批判しているというよりは、「悪い奴らは仲間すらをも信用することができない」ことのモデルケースを同時代的なものに当て嵌めただけであろう。現に、石ノ森章太郎の原作ではこれらの属性は反転したものになっているし、昨年配信された『仮面ライダーBLACKSUN』においても、政府を敵としながらも敵味方の内ゲバをドラマ内で丁寧に描いている。しかし本作ではそうした人間関係があまり描かれていないにもかかわらず属性だけが明確に与えられているので、最終的に政府の犬になった感が否めない。この辺は後々「シン○○」がシリーズとして継続する中で、一文字が『シビル・ウォー』におけるキャプテンアメリカとなる可能性があるので何とも言えないが、今のところ期待は出来ない。

 


ライダー映画には駄作も多いので、その中で本作が特別悪いというわけではなく、造形や一部演出などに関しては良い部分もあり、カードやフィギュアなどの関連商品には魅力を感じる。明日発売のゲームも予約済みだ。
私自身、庵野秀明という監督にあまり思い入れがないので映画論的なものは語れないが、本作に何か深い意味があったとして、それはきっと一般的な庶民の人生とは無関係なものなのだろうと思えてしまうし、特にそれで何の問題もないのが寂しい。