みやび通信

好きなゲームについて色々書いていきます。たま~に攻略記事あり。

シェンムー 一章 横須賀(PS4)

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2018年11月22日にセガから『シェンムーⅠ&Ⅱ』が発売されたことで数年ぶりの再会。

今回は改めて『シェンムー 一章 横須賀』をクリアまでプレイしてみた感想を書いてみたいと思います。

 

もともと私はゲーム自体は子供の頃にドラクエなどに少し触れたくらいで、中学生以後は全くゲームとは無縁の生活を送っていました。

そんな私が大人になって再びゲームを始めたのがXBOX360だったのですが、それからゲーム文化に興味を持って昔のゲームやゲーム関連の書籍を買い漁ったりして今に至ります。

シェンムーを初めてプレイしたのは今から6~7年前だったのですが、その時の衝撃はかなりのもので、それ以後シェンムーは私にとって特別なゲームの一つになりました。

 

2018年現在でも自分の好きな日本のゲームといえば考えるまでもなく『マリオ64』『ゼルダの伝説 時のオカリナ』『シェンムー 一章 横須賀』になります。

基本的に2Ⅾのゲームはあまりやったことがないのでどうしても3Ⅾのゲームを中心に考えてしまうのですが、特にオープンワールドのゲームを好き好んでやっている中で上記の3作品を超える国産ゲームには未だにお目にかかれていません。

ゲームが2Ⅾから3Ⅾになる際において「どうあるべきか」を宮本茂と鈴木裕という二人の天才が提示したこの3作品は現在でも超えることの出来ない金字塔としてそびえ立っています。

2016年に出た大傑作『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』も『時のオカリナ』に比べると海外のオープンワールドゲームの顕在化のように思えるし、今年出た『RDR2』で初めてシェンムーの萌芽を確認できたという感じでしょうか。

 

シェンムーだけが...

今でこそ「オープンワールドの先駆け」として紹介されることが普通になったシェンムーですが、過去の雑誌などで見る評判は概ね「クソゲー」、よくて「伝説のクソゲー」といったところ。

確かに今回改めてプレイしてみて思ったのは「操作性の悪さ」や「上手くいったところでたいして気持ちよくもないQTE」だったり、数年前にプレイした時と同じ欠点を反芻してしまいました。

格闘アクションにしても鈴木裕さん自身がバーチャファイターのエンジンを使っていて、前からシェンムーとは合わないと思っていた」と言っているほどで、開発者が合わないと思っているものがプレイヤーに受けるはずもなく。

ゲームの批判に最も使われる言葉の一つに「ゲーム性」がありますが、これは大体アクション関連を指す場合が多く、そういった意味でシェンムーが批判された事には納得がいきます。

一方の任天堂のマリオやゼルダはアクションを中心に作られているのでゲーマーからの評価が高いんですよね。

でも私にとってシェンムーは決してマリオやゼルダに劣らない名作だという想いがずっとあって、それゆえにシェンムーに対する思い入れも強くなっていったのですが、今回のプレイでその確信はより強いものになりました。

 

3Ⅾゲームの未来

鈴木裕さんについて調べると学生の頃から三次元CGを研究していて、セガに入ってからも世界初の体感ゲームハングオン』や3Ⅾ格闘ゲームバーチャファイター』を大ヒットさせたりと、3Ⅾに対しての造詣の深さやノウハウ・実績共に世界最高レベルの人物だったことが窺えます。

そんな彼がシェンムーで目指したものが「日常」で、『シェンムー 一章 横須賀』は今プレイしても日常系のゲームとしては唯一無二の完成度を誇っているのですが、実際ゲームで評価されるのはアクション系の操作性だったり冗長なストーリーだったりしてほとんどのプレイヤーが「楽しみ方がわからない」状態に陥ってしまったのではないでしょうか。

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「当時のビデオゲーム開発者にとって”プレイヤーが何でもできる作品を作る”ことは、”何もできない作品になる”とも言えて、タブーの領域だったんです」(鈴木)という言葉通りになってしまったとも言えます。

特定のジャンルにおいて何か新しい変革が起こる時というのはいつも時代の追い風が吹いていないとダメで、ゲームだったら最近ではスマホが普及したことによるソシャゲの爆発的な流行などは記憶に新しいですよね。

そういう意味ではシェンムーが受け入れられる時代っていうのは待っていても永遠に来ないと思うんですよ。

だからといって客の需要に応えているだけではそれはただの商品であってゲーム文化全体が消費されて終わってしまうので誰かがやるしかなかった。

これはアタリの失敗からゲームを復活させた任天堂はなおさら意識するところでしょうし、この頃の任天堂FPSを日本に定着させようとしたりとかなり先の未来を見据えていたことが64のラインナップを見ても明らかです。

結果的にニンテンドー64ドリームキャストPS2に惨敗という形になってしまいましたが、2018年現在の任天堂は64時代の『どうぶつの森』や『スマッシュブラザーズ』などのIPによって躍進し続けています。

一方のシェンムーですが、ロックスターの『GTAⅢ』に影響を与えたと言われているものの、両者を比べるとあまり似ているように見えません。

ロックスターをはじめとして多くの海外のゲーム開発者がシェンムーの名前を出しているにもかかわらずなかなか実感として影響を感じられないのはシェンムーレベルの冒険が出来る環境が整わなかったことや、シェンムーの理念を換骨奪胎するまでのオリジナリティの確立に時間がかかってしまったことが原因なのではないでしょうか。

スピルバーグが『ジュラシックパーク』を撮ることになった理由が『シンドラーのリスト』を撮る資金調達のための口実だったというのは有名な話ですが、ロックスターが最新作『RDR2』でシェンムー的な「プレイヤーが何でもできる」世界を実現出来たのは正にそういうプロセスを踏んできた結果だったのではないでしょうか。

現在の3Ⅾゲームの多くが64やドリキャスが提示した未来の途上にあり、私たちが今でもコンシューマゲームのAAAタイトルで遊べるのもこういった先人たちが失敗を恐れず挑戦した結果なのは間違いありません。

 

ドブ板のリアリティ

シェンムー 一章 横須賀』の、いやシェンムーの魅力のほとんどがこのドブ板のリアリティに集約されています。

このゲームは主人公の芭月涼が父親を殺されるところから始まり復讐の旅に出るというとてもわかりやすく単純な話です。

私は初代『ドラゴンクエスト』に近いと思うのですが、その大きな理由として「単純明快な本筋の上で主人公のキャラを過剰に説明せずに周りの人たちとのコミュニケーションによってプレイヤーに理解させる」という共通点が見られます。

ゲームの多くは数人の主要キャラクターの過剰な設定や練り込まれたストーリー展開によって連続テレビアニメのような見せ方をしていますが、シェンムーにはたいしたストーリーも過剰な個性を持ったキャラクターも存在しません。

これはゲームの持つインタラクティブ性や自由度を生かした結果に獲得したリアリティによって不要になったのかと。

ここで言うリアリティとは「リアルよりもリアリティ。そのために誇張する」(鈴木)という言葉通り、あくまでも単なる現実の模倣ではなくてゲームとして操作した時に感じられるリアリティの事で、それは2Ⅾのドラクエに比べてはるかにハードルの高い挑戦だったと思います。

ドラクエの場合はストーリー重視のファンには初期作品の評価がそんなに高くないのですが、それは容量の問題で長いストーリーを展開出来ないという理由から、苦心の末にモブキャラたちの短いセリフから主人公の目的や世界観を説明せざるを得なかった事が、結果的に個性的で独創的なセリフを生み出して後のストーリー重視の作品よりもゲーム内の世界に深みを持たせていました。

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主人公の芭月涼には血のつながった家族はいませんが近所やドブ板の人たちと話すとみんなが彼を知っていて優しく接してくれます。

この「疑似家族」で得られる効果は血のつながった家族を描くよりも広がりのある温かみを演出することが出来ます。『RDR2』のキャンプもそうですね。

これは山田洋二監督『男はつらいよ』シリーズや60年代のテレビホームドラマで使われていた戦後民主主義性善説を土台にした構造で、特別なキャラクターを作らないかわりに通常よりも多くの登場人物を描き、その中での関係性によってドラマを作っていきます。

この手法は現在『サザエさん』や『ちびまる子ちゃん』でも使われていて、大げさなストーリーを作らなくても人と人との関係性を視聴者が把握することによってほんの小さな出来事の中にも広がりのあるドラマを見出すことが出来るのです。

これを初めてゲームで実現したのがシェンムーで、200人以上いる登場人物を作り込むことによってゲームの中に生きた世界を作り出しています。

プレイヤーが住民たちの個性に触れれば触れるほど世界は生き生きと浮かび上がり、その中で起こる些細な出来事に一喜一憂してしまいます。

しかしこの民主主義の大前提である「話し合いだけで問題を解決する」を律儀に守ることでシェンムーのアクション要素は大幅に禁じられました。『RDR2』においても暴力が禁じられているのはキャンプ内のみで、『龍が如く』では全てを暴力で解決するスタイルを取る事で所謂アクション的な意味での「ゲーム性」と引き換えにシェンムーの持っていたリアリティを失っています。

 

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住民一人一人にしつこく話しかけたり行動を把握できるようになってくると案外単調に思えてくるのですが、後半に自分が倉庫で働くようになると「朝起きて働いてガチャガチャしてコンビニ行って帰る」という住民に負けないくらい単調なNPC的な生活を送ることになりゲーム内世界との一体感がハンパないです。

この感覚は『ドラゴンクエストⅣ』のトルネコ章で、実際に自分が延々と武器屋のカウンター内で商品を売り買いするだけの生活をすることによって自分がドラクエの世界の一部になったかのように感じてしまうという体験と似ています。

 

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初めてシェンムーをプレイした時に「80年代ってもっと物騒な時代だったのでは?」と思ったのですが、実際に調べてみるとテレビドラマで校内暴力などの社会問題が取り扱われていたのは84年頃までで、86年はバブルの雰囲気が強くなってきて、ヤンキー文化とアイドル文化が近付いて浮かれたムードが漂いはじめていて60年代のホームドラマ的な世界を再現するのに丁度適しているような年でした。

 

あと先日実際にドブ板へ行ってみてわかったのですが、想像していたよりもずっと海外の方が多くて人種的に他のどこよりも多様性に富んでいました。

ロックスターがGTAシリーズのコンセプトについて「オープンワールドはそこで想定されるあらゆるものが存在していなくてはならない」ということを言っていましたが、ここで言う「あらゆるもの」で彼らが特に重要視しているものが「人種」です。

ロックスターがオープンワールドで再現しようとしているものは『GTAⅢ』から現在まで一貫して「アメリカ」なのですが、『GTAⅣ』の主人公ニコや『RDR』のジョン・マーストンが体現した移民のリアリティも、雑多な人種をオープンワールドという舞台の中にぶち込むことによって様々な問題を抱えるアメリカの本質を背景として主人公の置かれた状況を明確にしています。

私が『龍が如く』を始めてプレイした時に一番がっかりしたのが「歌舞伎町なのに外国人が全くいない」というところで、ストーリー自体のリアリティを削いで一種のファンタジーとして描いているのが意図的とはいえ残念でした。

こうした人種の多様性をストーリーとはあまり関係のない部分にまで取り入れていることがシェンムーが海外で絶賛されている一因になっているのではないでしょうか。

特に海外よりも表現の規制が厳しい日本のゲームにおいて、社会問題や性表現を抜きにした場合のリアリティの在り方としてシェンムーは「出来ることは全てやり尽くしている」といえるほど多様なアイデアに満ちています。

 

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ゲームの終盤でホットドッグ屋のトムがアメリカへ帰ることを知るのですが、ただのホットドッグ屋です。ストーリーと何にも関係ないしヒントもくれないやつです。

でも、すごく悲しくて寂しい気持ちになります。

この、どうでもいいようなエピソードでプレイヤーの気持ちを揺さぶるためにシェンムーの緻密な世界は作られているといっても過言ではありません。

ばかばかしいと思う。

くだらなくて、意味がないかもしれない。

クソゲーの一言で片付けられても仕方ない。

 

でも、やるんだよ!

 

多くのクリエイターやゲーマーにインスパイアを与えたシェンムー

誰もやってない事、やろうともしなかった事が20年後の現在でも意味を持ち続けている。

シェンムー信者は全員バカなのかもしれない。

でも、バカにしか気付けないことがある。

 

ドラクエは『Ⅷ』からストーリー重視のキャラゲー路線を進み最新作に至ってはついにNPCはただのヒントをくれる木偶の棒と化して歩くこともやめてしまいました。

一方でフランスのクアンティック・ドリームは『ヘビーレイン』で不評だったQTEを進化させて『デトロイト』を作り、アメリカのロックスターは『RDR2』でシェンムー的な自由度を持った世界の中で上質なストーリーを展開させている。

今世界の最先端を走っているのがバカばっかりで嬉しくなります。

最高。

今年シェンムーが再発されたのには大きな意味があるのだと感じています。

その意味を、存在を、来年予定されている三章が発売されるまで噛みしめていたいと思います。

 

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