みやび通信

好きなゲームについて色々書いていきます。たま~に攻略記事あり。

復活したSyamu_Game人気の源流を辿る

Syamu_Game(シャムさん)は2010年~2014年までYouTubeニコニコ動画などで活動していた動画投稿者です。

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2014年の「オフ会0人動画」で人気に火が付き、引退後の2015年に過去動画や加工されたMAD動画がネット上で爆発的なブームになりました。

そんなシャムさんが2018年12月に復活を遂げるとTwitterフォロワー数は1日で20万人を突破し、その後も1分間に500人のペースで増え続けあっという間に30万人を突破。

HIKAKINさん(290万)はじめしゃちょー(400万)のような化物レベルのユーチューバーと比較すると少なく見えますが、インフルエンサーとして有名なはあちゅうさん(22万)のフォロワー数をたった1日で抜いたと言えばその凄さが解るかと思います。

 

当記事ではシャムさんがどうしてここまで世間に受け入れられたのか、その下地となった背景を推察していきます。

個人的にシャムさんは所謂興行的なエンターテイナーではなく、業人が周囲を巻き込んで結果的にエンタメ的な盛り上がりを見せた「現象」として捉えています。

 

因果鉄道に乗って…

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根本敬『人生解毒波止場』(1995)より~著者による精神病棟レポート

漫画家の根本敬氏(以下敬称略)が1993年に出版した『因果鉄道の旅』は多くのアーティストやテレビ・出版業界人に影響を与えた名著として知られています。

それまで大衆に張られた特定のレッテルや分類されたイメージの中に閉じ込められていた勝新太郎や奥崎健三を「己の星の下に生きている」という肯定によって解き放つ活動は、韓国のタクシー運転手から釜ヶ崎のホームレスなどボーダーレスに広がり、その鋭い洞察力や膨大な取材量から導き出される新しい価値観は根本敬系宇宙」への理解を深めるだけでなく、新しいエンタメの方向性をも提示する事件でした。

 

それまでテレビが取り上げていた素人は所謂「陽キャ」。『欽ちゃんの仮装大賞』や『天才たけしの元気が出るテレビ』に出てくる素人は製作者側の切り口こそ違えど「ちゃんとした」素人でした。

テリー伊藤のプロデュースしていたテレビ東京浅草橋ヤング洋品店』(92〜96年 後の『ASAYAN』)は元から攻めの姿勢が強かった番組でしたが、根本作品のエンタメ性にいち早く目を付けたテリー伊藤は番組に根本敬を呼んで「ホームレスファッションショー」という、本物のホームレスを大量に出演させた企画を撮影します。

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※『浅ヤン』出演予定だった方

もちろん過激すぎてVTRは放送されずにお蔵入り。

テレビでは無理だということでその後テリー伊藤根本敬と組んで創価学会北朝鮮といった業の深い組織や国をエンタメ本にして出版していきます。

2017年にアマゾンプライムビデオの『今田×東野のカリギュラにおいてホームレスだけを集めてクイズ大会を催す企画が配信されましたが、正直素人のネット配信がこれだけ普及した現在にエンタメとしての可能性はあまり感じられませんでした。

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※『今田×東野のカリギュラ』2017年6月23日配信回

もし当時テリー伊藤のホームレス企画が放送されていたとして、「お茶の間を下品のどん底に叩き落とす」という90年代サブカル的な価値は持たせられたかもしれませんが、エンタメとしての新ジャンル確立などは到底出来なかったでしょう。おそらく根本さん自身にそういった自分の作風をメジャーに押し上げたいなどという野望はなかっただろうし、現在も独自の方向性で活動しているのですが、2018年になってもまだこういう企画をエンタメとして成立すると思っている業界人がいるというのは驚きです。

根本敬によって、今まで腫物のように扱われていた人物を面白がってよいという価値観の変革はあったものの、それをテレビや映画のサイズに落とし込むにはそれ相応の時間や忍耐を要することは奥崎健三を追ったドキュメンタリー映画ゆきゆきて神軍を監督した原一男の制作ノートを読めば、その鬼気迫る壮絶な対象との格闘を垣間見ることが出来ます。

 

大衆性を獲得した『ゆるキャラ

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※「ニャンまげ」とみうらじゅん

根本敬とほぼ同時期に月刊漫画誌『ガロ』でデビューしたみうらじゅん。二人はお互いを「陰と陽」「戦友」と讃え合うほどに作品のモチーフが共通しています。

根本敬が「人物」に寄っているのに対してみうらじゅんは「モノ」に寄っているという違いはありますが、「それまで誰にも見向きもされていなかった」「業の深いもの」の観測者として、またはそれらをコラージュ・エンタメ化するアーティストとしてお互いを認め合う良きライバル関係を築いています。

シャムさんもそうですが、最近だと「性の喜びおじさん」がある種の「ゆるキャラ」的な人気で持て囃されたのもこのような下地があったことが大きいのではないかと考えられます。

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京王井の頭線で撮影された「性の喜びおじさん」

そもそも「ゆるキャラ」自体が業の観測者であるみうらじゅんによって発掘・顕在化されたものなのです。

 

90年代リバイバル

ここ数年の一億総ツッコミ時代(マキタスポーツ)ともいえる、ネットに上がったツッコミどころ満載の画像のバズり方を見ていると、トマソン』(赤瀬川源平)~『VOW』(宝島社)~みうらじゅん的な、正確には80年代後半から90年代中盤までのサブカルの流行を反芻しているような印象を受けます。

しかしかつての出版社主導の流行ではなくSNSで無秩序に拡散されているためルールが存在せず誰でも手軽に投稿できるため、注目されることだけを目的として他人や企業に迷惑をかけたりする人が続出し毎日のように炎上しています。

そういった拡散の過程で、かつては一線が引かれていたみうらじゅん的なポップな「キャラ」と根本敬的な「業人」との境界線も曖昧なものになってしまいました。

出版社主導の時代はラジオのネタ投稿と一緒で編集者の審査を通ったものだけが雑誌に掲載されていたのですが、そういった検閲をパスポートなしで簡単にくぐり抜けられる素人投稿はもはや「おもしろくなくても注目されれば良い」という「おもしろさ<注目度」という逆転現象を起こし、ツッコむ側も素人なのでおもしろさよりも炎上を楽しむという有様。

この、90年代サブカルリバイバルの無秩序な拡散には観測者が存在せず(いたとしても機能しない)、一つのコンテンツは無責任な大衆にあっという間に消費され、その激しい移り変わりに巻き込まれた人はすぐに飽きられ、今後も文化として確立される事なく悪い側面だけが拡大していきそうです。

シャムさんが活動していた2011年~2014年という時代にはまだ今ほどスマホSNSが普及しきってはおらず、現役時代は2ちゃんねるにスレが立つ程度でした。

今では動画投稿サイトが爆発的に増えて、アプリで気軽に見たものを切り取ってSNSに張り付けて一瞬で消費されます。

こういった流れにシャムさん的な人が今から乗れるとは到底思えません。

2018年に復活したシャムさんはその不在時におけるスマホの爆発的普及期間に天然物の最後の殉教者として祭り上げられた生贄なのかもしれません。

 

働くおっさん人形

80~90年代のサブカル的な視点がどうして世間一般に広まったかというと、それはもう松本人志という人間一人の仕業なのではないかと。

松本人志の芸がサブカルに影響されたというよりは元々の資質にサブカル的なセンスが内包されていて、周りの子供たちが特撮ヒーローを見て「かっこいい!」と言っている中で松本少年は「なんで下タイツやねん」というツッコミ視点から自らのボケへと発展させて芸風を確立させたわけで、ツッコミとボケを同時に発想できる天才です。

ダウンタウンがまだ無名時代に電気グルーヴが握手を求めてきたエピソードとか、メジャー化する前からサブカル界隈では圧倒的支持を得ていました。

大阪時代の番組レギュラーにはみうらじゅんもいたし、『ごっつええかんじ』の曲の監修に根本敬擁する「幻の名盤解放同盟」が関わっていたりと親和性も高い。

特に96年に発行されたVOWでやんす!』は、みうらじゅんがゲストに自分が集めたバカな写真を見せて一言貰うという企画なのですが、ここでの松本人志の発言はもはや神がかっており、今では普通に大喜利のネタとして使われている「写真で一言」をコンテンツとして成立させてしまいました。

現在アマゾンプライムビデオで地上波では出来ない過激な笑いを追求する彼も、00年代あたりは地上波で実験的な企画を展開している時期がありました。

その中の一つに2002年~2003年にフジテレビで放送された働くおっさん人形があります。

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※『働くおっさん劇場』より~一番右が野見隆明さん

一般の素人中年男性を数名並べて松本人志が色々質問したり、要求した軽いアクションを見せたりするだけの番組なのですが、これが本当にすごい。

出てくるおっさんの顔がどれももう正に根本敬の提唱する「イイ顔のオヤジ」そのもの。どの方も逸材で、所謂テレビに出たがるような素人ではなく、何故自分がテレビに出ているのかよくわかっていないようなリアクションが新鮮でした。

かねてから松本人志「素人がいちばんおもろい」と言っていて、それの最良の人選が無意識に根本系宇宙とシンクロするという奇跡。

根本敬のようにその人と深く長く付き合ってレポートするという手法ではなく、あくまでもお笑い的な面白い要素を引き出すためにおっさんを個室に入れてマイクのみで対話する(『働くおっさん劇場』)という入念で周到な舞台を作っています。

この設定からは松本人志なりの素人に対する配慮や敬意がきちんと払われていて、ともすれば単なる晒し者になりかねない「素人イジリ」を番組として成立させようとするプロ意識が窺えます。

その後続編である働くおっさん劇場』(2006~2007年)を経て2011年の松本人志三作目の映画監督作品さや侍では、おっさんの一人である野見隆明さんを主演に据えて映画を撮るというところまで発展しました。

映画の出来には満足していた松本さんでしたが、素人から突然映画の主演俳優に抜擢された野見さんはかなり調子に乗ってしまったようで「しばらく放っといたるねん」と匙を投げられてしまいます。

ここに「素人イジリ」の難しさ、デリケートさが見て取れます。

あの松本人志をもってしてもこれが限界です。

その後松本さんは番組で素人を使うことなく芸人主体の企画にシフトしていきました。

素人を芸能の世界に巻き込むことには細心の注意が必要だし、自分の扱いによって成立していた野見さんという存在をタレントとして今後も保証することなど出来るはずがない。

幸い映画はあまりヒットもせず、酷評も監督のみに向けられたので野見さんにダメージはなく、むしろ一時でもスターになれたメリットの方がはるかに大きかったはずです。

 

復活初日、Twitterのフォロワー数が信じられないくらい増え続けたシャムさんもきっと野見さんのように浮かれていたのでしょう…。

 

ニコニコ生放送と横山緑

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※配信中の横山緑

横山緑は素人動画配信黎明期の2009年から立川市議に当選した2018年までニコニコ生放送の雑談系生主としてニコニコチャンネル「暗黒放送」で配信界に一時代を築きました(2019年現在も定期的に配信中)。

彼の周りには一癖も二癖もある配信者達が集い、横山緑監督の自主製作映画『森田義之・com』にはそれが顕著に表れています。

 

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※横山緑監督『森田義之・com』の1シーン

この映画、(一見すると)普通に働いている健常者がほとんど出演しておらず、実際に何かしらの問題を抱えている人達が集まっている凄味が映像から感じられます。

自分の放送を「人間ドキュメント」だと言う彼の主張通り、暗黒放送は雑談から牛丼屋での食事、夫婦喧嘩で家を追い出されて深夜の街を彷徨う横山緑自身の様子を生放送で延々と配信していました。

生配信なので全く編集されておらず、正確には「ドキュメントの素材」状態なのですが、配信がまだアングラな時期で現在ほど規制も厳しくなかったのでハプニングを期待した多くのリスナーを獲得していきました。

 

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※突発的なバイオレンスも一部始終配信される

横山緑の周りには数々の仲間~嘘つき・犯罪者・引きこもり・メンヘラ・性豪などなどバラエティに富んだ生主たち(本人含む)が集まってくるのですが、そういった自分より格下に見ている仲間のおもしろくない話を何時間も延々と聞いたり嘘に付き合ったりする接し方は、ただ単に見世物・笑いものにしてやろうという計算が感じられない、良い意味での「非エンタメ」でした。

ここにはそれまでの出版社・テレビ主導の「演出された素人」との断絶が見られます。

一芸にも秀でていない・見てくれも性格もよくない…ニコニコはいわばそういう人たちにとっての「場」であったわけで、そこにエンタメ的なおもしろさを求めたりレールを敷いても彼らはすでに脱線した状態にあるわけで…。

一度ライブハウスの企画でプロインタビュアーの吉田豪が横山緑に「なんかおもしろいことやってみて」と振ったのですが、横山緑はもちろんその振りに何も答えられず完全に見切られてしまうという出来事がありました。

これは90年代のサブカルを当事者として生きてきた吉田豪からすれば当然の判断で、ここら辺の(表舞台に上げて良い・悪いという)線引きが出来ない人がまだまだ多い事が現在のネット上での「勘違い素人」量産に繋がっているのではないでしょうか。

復活したシャムさんの動画を「昔よりおもしろくない」という意見を多く見ますが、加工されてない過去のオリジナル動画とシャムさんの現状を鑑みれば納得できます。

本来ならシャムさんはシバターさんが指摘したようにピアキャストやニコニコで消費され尽くして然るべき人だったはずが、圧縮されたネタ動画拡散装置としてのスマホの普及によって生まれた一部の需要にぴったりとフィットしてしまった。

それに加えてシャムさんの絶大な自己評価の高さや、自己と他者との相対的な比較判断能力の著しい欠落は横山緑周辺の人達にはあまり見られないタイプで、ニコニコというアングラではなくSNSYouTubeといった大衆的な場で支持されることで際限なくその虚像を膨張させてしまいました。

 

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シャム動画の中でも有名な「シバターとの絡み動画」がありますが、ここでのシバターさんの手法は松本人志の模倣です。しかもこれまで書いてきた根本敬松本人志、横山緑のように対象と長期間関わるようなこともせず、芸人の見様見真似で適当にイジッて消費するだけの動画でした(シャム動画としては秀逸)。シバターさんがどうこうの話ではないけれど、結果的にその後のシャムさんのイジリ方の(無責任で雑に扱って良いという)お手本になってしまったし、シャムさん自身の中でもYouTubeで有名なシバターさんから注目されたという既成事実が「自分はメジャーな存在だ」という自己評価の底上げを起こしてしまったのではないでしょうか。

 

大衆人気の恐ろしさ

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※2019年2月22日のYahoo!ニュースより

話はゆるキャラに戻りますが、最近著作権問題で話題の「ちぃたん」というキャラがいます。このキャラは単なるご当地キャラではなく、クリーブラッツという芸能事務所主導の企画なのですが、アイドル好きからは「仮面女子」で有名な事務所。それも決して良いイメージではなく、所属タレントのTwitterフォロワーを業者から買ったりとある意味普通ではない、サブカル的な視点での注目を集めるような案件だったわけです。

一般の人はそんなことは知らないし、ろくに情報収集もせず「かわいさ」という広告的な常套手段に簡単に乗っかってくれます。

シャムさんの復活後のクズ発言を見て「こんな人だとは思わなかった」「前はもっとかわいげがあったのに」などと言っている人達も同類で、そういった流されやすい大衆を巻き込んでしまったことはシャムさんにとっては分不相応な幸福(または不幸)であって、もはや後戻りが出来ない状態に追い込まれてしまいました。

横山緑の生々しいドキュメント素材的な手法はそういったキャラクター化を避けることが出来ていたわけですが、シバターさんの芸人的なノリは図らずもシャムさんをキャラクター化し、メジャーへと押し上げる手助けをしてしまった。

これはニコニコとYouTubeのユーザー層の違いも大きく影響しているかと思われます(※ニコニコ30~40代・YouTube10~20代)

 

まとめ

それまでスポットの当たっていなかったモノや人を対象に独自の価値観を形成していった90年代サブカルチャー。そういったサブカル勢に圧倒的支持を得てサブカル的なおもしろさを一手にメジャーへと押し上げた松本人志

その後松本人志の番組で育った人たちがネットという場を得たことによってサブカル的な価値観を拡散していくのだけど、主導者や観測者不在の「場」はルールも批評も枠も存在しない無秩序な空間。「有名になりたい」という欲望は数字に固執する事のみによって目標を達成し、炎上は文字通りあらゆるモノや人を焼き畑的に次々と使い捨てていく。

萎縮し、早々に安全地帯へと逃げていった人たちは他人の欲望に嫉妬して攻撃。

不在時におけるシャムさんの伝説化は、そんな有象無象の欲望や憎悪が作り出した「永遠に壊れないおもちゃ」という幻想の産物だったのではないでしょうか。

シャムさんがすごいのは、オフ会に誰も来なかったこと自体ではなくて「彼女が出来ると思ったのに出来なかった」くらいの認識しかしていないところ。

なので「勘違いしてオフ会開いたのに誰も来なかったのかよ、だせえ」という煽りは一切効かないんですよ。シャムさんがオフ会を開いたのはただ単に彼女が欲しかったからで、「彼女が出来なかった」という事実が失望の頂点にあって、それ以上の現実は認識しないようになっているんですね。彼女はそれまでもずっといなかったわけで、つまり「たいして何も思っていない」からあんな動画が出せたんですよ。

普通は恥ずかしくて晒せないような姿を晒すのも、恥ずかしいと思ってないからで。あの動画を見て「嘘を付けない正直な人」という感想を持つ人がいるけど、恥ずかしくないなら嘘をつく理由がないですよね。だからといって恥という感覚がないのではなくて、一般の人とポイントが違うだけだと思います。文化人類学みたいなものですね。

シャムさんのような、己の欲望のみに忠実で、己の法で生きているような人間は松本人志が扱った野見さんや横山緑周辺の変わり者・はみ出し者とも違う、完全に根本系宇宙に属する業人なんだと思います。

そんな業人が松本人志の手法の上澄みを安易に真似たような素人集団によってイジリ倒されているというのが現状。

世間の常識(それも曖昧なもの)をシャムさんに当て嵌めて叩くアンチ、シャムさんをキャラ視してブームに乗っかる大衆、優秀なMAD職人、雑にイジる芸人もどき、サブカルの拡大解釈として嗜好する者…そういうシャムさんの周りで勝手に起きている竜巻のような現象が『Syamu_Game』の人気の正体であって、シャムさん本人とはあまり関係がないという気がします。

 

補記

・ここに書いた「90年代サブカル」は根本敬みうらじゅんが提唱した価値観から現在に影響があると思われる「人」や「キャラ」の一部分にスポットを当てて書いています。

マスコミがキャラとして面白がって持ち上げたオウム真理教が破滅する95年あたりまでを想定しています。

 

・「業人」の定義は難しいのですが、例えばシャムさんが何らかの障害を持っていたとして、周囲や本人が無自覚な状態のまま生きている状態を指すことはできます。または周囲からの干渉を受け付けない「強固な思想・価値観」によって迫害を受けたりしている状態。それによって周囲の人間を無自覚に巻き込んでしまうような人。自分以外の人間に理解されない苦しみを抱えている人も指します。

 

・今回はシャムさんというフィルターを通して90年代サブカルと現代の素人ネット配信について考えてみました。Syamu_Game自体にはファンとして今後も注目していきたいと思います。