生きていることって、それ自体は基本的には肯定されない。
だから社会の中で自分の価値を証明しなければならないですよね。
言い方を変えると、もしも難病にでもなったらさっさと死ねと言われるような社会。
平気で人を使い捨てにするような社会は精神的に貧困だとは思うけど、政治も企業も人間性なんかないからあてにはできない。
だから、もがく。
病人だろうが地方の主婦だろうが誰彼構わず「わたしをみて」と。
スマホが一般に普及してからのSNSでは「なにかを成し遂げる」ことの疑似体験が容易になった。
別にそこまでうまくなくていい。
ただすこし他人の気を引ければよいのだ。
多くの人は貧乏でバカなんだから、そいつらの気を引ければよいのだ。
もうすでに人気のあるキャラクターを模写してみたり、使い古された正論でもぶっておけばいい。
なりふり構わない世界なのだ。
任天堂は、甘く見ていたと思う。
きっとその人たちが個人的な承認欲求で動いていたり、同じ趣味を持つ人たちの馴れ合いのように見えていたのだろう。
SNS中毒の人でも「これはなんかちがう」という感想の人が多かったように思う。
まったく流行らず、もうとっくに終わっていた。
任天堂がMiitomoで想定していたような牧歌的なコミュニティなんてもうどこにも存在していないし誰も求めてはいなかった。
ネット上で知らない人と料理の話で盛り上がる。
楽しい。
という状況は、もうとっくに終わっているように思う。
「盛り上がっていて楽しい」を拡散しなければならない。
拡散そのものが目的であり、その前の行為自体は演出でよいのだ。
そこまで麻痺している現状にMiitomoはあまりにもズレていて閉じていた世界だった。
任天堂のキャラクターと、あらかじめ用意されたお題だけで戦えるほど個人個人の能力は高くないし、疲れてしまう。
他人の傷口を写真に撮って見せびらかしたい人に絆創膏を渡すようなものだ。
最近出た「どうぶつの森 ポケットキャンプ」でも「フレンドにいいね!しましょう」というものがあるんだけど、これも的外れすぎる。
いいね!が数値として可視化されていないのだ。
他人に「いいね!」されること自体がもう何の価値もなくなってしまった。
千とか万の数値になることによってはじめて価値になるのに。
私はMiitomoが受け入れられないような麻痺した病的な世界は嫌いだけど、それでもMiitomoのSNS中毒者のおこぼれをもらいに行くようなスタンスも好きになれない。
いっそのこと心理学者やネットのプロでも雇って覇権を狙いに行くとか、人と人との繋がりを遊びに変えてしまうような斬新なものを作ってほしかった。
任天堂には、そういう影響力や技術力があると思う。
個人的にはMiiは好きだし、画像を簡単に加工できるアプリとしては重宝していたのでサービス終了は残念です。
このMiitomoもマリオランも課金ガチャ主流のスマホゲーに一石を投じようとした素晴らしい試みだと思っています。
今後もこういった任天堂の挑戦に期待しています。